「生きる意味を見失った人」が、なぜ他人を傷つけるのか?
〜心の奥にある“壊したい衝動”〜

またか、と感じる一方で
またしても、小さな命が無差別な暴力によって脅かされるという、あまりにも痛ましい事件が起きました。
「むしゃくしゃしていた」「すべてが嫌になった」── そんな言葉だけがニュースで繰り返され、犯人の属性や状況ばかりが報道されます。
でも、私がいつも引っかかるのは、 「どうしてそこまで追い込まれたのか?」という部分が、あまりにも浅くしか語られないことです。
それでは、きっとまた同じような事件が起きてしまうでしょう。
正しくありたいのに、正しくなれない人たち
今回の事件の加害者について、私はおそらく反社会性パーソナリティ傾向のある人物ではないかと思っています。
冷酷で身勝手──そう思われがちですが、実はすごく繊細で不器用な人も多いんです。
・正しく生きたいのに、生きられない
・本当は誰かに助けてほしいけど、頼れない
・愛されたいけど、素直になれない
そんな矛盾を抱えながら、周りには強がって見せて、心の内ではずっと怒りや悲しみを押し殺しているのです。
実際、ニュース後の犯人を知る人たちのインタビューでは、「そんなことをするように見えなかった」「おとなしい人だった」という言葉を耳にすることがあります。 そのくらい、自分の感情を表現できない人が少なくありません。
そしてあるとき、それが爆発してしまう。
車の運転は、抑えていた感情が現れやすい場所でもあります。 運転中は閉ざされた空間で一人きりになり、緊張や怒りがふと表に出やすくなる。 車という密室の中で、積もり積もった感情が爆発したとき、それが最悪の形で表れてしまうことがあるのです。
人を殺したい衝動の奥にあるもの
ここで少し踏み込んで言うと、「人を殺したくなる」という衝動は、 実はその人自身が「自分なんて生まれてくるべきじゃなかった」と思い込んでいる場合に起きることがあります。
もちろん、そういう思いがあっても、犯罪に至らない人のほうが遥かに多いです。
でも、稀にですが、自己否定が強く、「自分の人生なんて壊れてしまえばいい」と思っているとき、 その破壊衝動が外に向かい、他者を巻き込むような事件になってしまうことがあるのです。
そこに「でも見てほしい」「誰かに気づいてほしい」という思いが合わさると、 “注目される”という形を、無意識に選んでしまうことがあるのではないかと思います。
見捨てられたくない、忘れられたくない。 愛されなかった人生の代わりに、記憶に残ろうとする。 それが最悪の形で表れてしまう──そんな構図が背景にあるのかもしれません。
私も不完全な人間です
私自身、精神的には強い方かもしれません。 ある程度の困難では折れないし、自分でなんとかしようとするタイプです。
でも、もちろん私だって完璧ではないし、弱さもあります。 不安や焦り、迷いに飲まれそうになることだってあります。
そんなときでも、「優しい自分ではいたい」って思うんです。 それは、誰かにそう見せたいからではなく、自分がそうありたいから。
「正しく生きる」のは難しいけど、「優しく生きる」ことを、選べる自分でいたいと思っています。
それでも人は、変われる
私は、苦しんだ時に、人を傷つけようとは思いませんでした。それでも、身近な家族にはストレスが漏れ出てしまい、理不尽に怒りをぶつけて迷惑をかけたこともあります。
だから、犯人の気持ちが全くわからないわけではありません。
ただ、それでも思うんです。
もし、誰かがその人の弱さに寄り添えていたら。 ほんの少しでも、気持ちを出せる場所があったなら。
助けを求めてもいい。弱さを出してもいい。そう言ってくれる誰かがいれば、悲しい選択をする前に、違う道が見えたかもしれません。
「本気で変わりたいと思うなら、人はいつでも変わることができる」──私はそう信じています。
終わりに
加害者の行動が許されることはありません。でも、それが「どうして起きたのか」に向き合わなければ、 同じような悲しみはきっとまた繰り返されてしまう。
見えない孤独や怒りに、誰かが気づけていたら。「助けて」と言えない不器用さに、誰かが手を差し伸べていたら。
そんな未来をつくるために、私たち一人ひとりが、「どう生きたいか」「どんなまなざしを持ちたいか」を考えることが、きっと次の誰かを救う一歩になるんじゃないかと思います。