「とっとと捨てろ」の裏にある静かなまなざし──“全捨離”の大王に見た、もうひとつの物語

「全部捨てろ」
「とっとと捨てろ」──
断捨離ブームの中でも、とくにインパクトのある言葉が飛び交う「全捨離」。
なかでも「大王」と呼ばれる人物は、その過激なスタイルと軽快なトークで、多くのファンを魅了しています。
冗談や毒舌を交えながら、笑いと勢いで“人生の荷物”を削ぎ落としていくスタイルは、どこか痛快であり、私も楽しく拝見させていただいています。
でも、私は思うのです。
その笑いの奥に、静かな影があるような気がしてなりません。
全部捨てろ。とっとと捨てろ。
たしかに、モノに執着しすぎて動けなくなることはあります。思い出に縛られ、前に進めなくなることもあります。
だから、「捨てる」という行為には、ある種の清浄さや、勇気があるのもわかります。
でも、ある日「大王」がふと黙ったときに、私はその目の奥に見えたのです。
すべてを笑い飛ばしたその先に、どこか、とても静かで、深い孤独が。
断捨離は、本来「モノとの対話」
断捨離とは、本来“捨てること”が目的ではありません。
- なぜ、これを持ち続けたいのか?
- これにどんな気持ちが結びついているのか?
- 手放すことが、なぜ怖いのか?
それを問いながら、「自分の内面を見つめる行い」こそが、断捨離の本質ではないでしょうか。
でも、「全部捨ててしまえ」と言ってしまったら、この対話がごっそり抜け落ちてしまう。
全部捨てるのは、むしろ“向き合わない”ことにもなりかねない。
捨てたいのは、モノじゃなくて「過去」なのかもしれない
私には思えるのです。
「全部捨てろ」と言いたくなる人ほど、かつて何か大きなものを背負っていたのではないか。
誰にも弱さを見せられず、一人で悩みを抱えてきたのではないか。
モノに囲まれることで、少しでも安心しようとしていたのではないか。
そして──
本当は「感じること」がつらくて、捨てることで、全てを忘れようとしてきたのではないか。
だから、大王と呼ばれる人の目の奥に浮かぶのは、「捨てても消えなかったもの」と、まだ向き合っている表情なのかもしれません。
王は、なぜ孤独なのか?
これはスピリチュアルや自己啓発の世界に限らず、よく見られることですが、
- カリスマ的な人
- 断言する人
- 人を導くリーダー
そういう人は、いつしか「人間であること」を手放してしまう。
なぜなら、人前では弱さを見せられないから。
王は、迷ってはいけない。
王は、ブレてはいけない。
王は、泣いてはいけない。
でも本当は、誰よりも人間らしく、誰よりも甘えたかった人なのかもしれません。
捨てることの光と影
捨てて救われる人もいます。
それでやっと、自分を取り戻せた人もいます。
でも中には、必要なものまで捨てて、心のよりどころまで失ってしまう人もいます。
捨てることは、万能薬ではない。
捨てた先に、本当に必要なものが何だったのか、気づくこともある。
さいごに
私は思うのです。
本当に手放したかったのは、モノじゃなくて、孤独だったのかもしれない。
でも、それは捨てて終わるものじゃない。
感じて、認めて、許されて、初めて癒えていくものなのだと思います。
だから私は、こう問いかけてみたい。
捨てることよりも、
「本当に欲しいものは何か?」
それを自分に尋ねてみてはどうでしょうか。
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